
1957年フランス・マルセイユ生まれ。マルセイユとパリの時計学校で学び、1977年にパリで懐中時計の修復を始める。1982年には初のトゥールビヨン付き懐中時計を製作。1999年に自身の名を冠したブランド、F.P.ジュルヌを立ち上げる。2003年9月に初の直営店である東京ブティックを南青山に構える。
ブランドの数十年先を見据えた決断
2018年9月、時計業界が騒然とした。「シャネルがモントル・ジュルヌ社の株を20%取得した」というニュースが飛び込んできたのだ。フランソワ-ポール・ジュルヌは「独立性を保つために、資本提携は一切しない」との考えを貫いてきただけに、さまざまな臆測を生んだのである。ジュルヌは何を思ったのか。
同じ哲学を有しているシャネルだったから
この20年、あらゆるラグジュアリーブランドから、資本参加の話をいただきました。ずっと「NO」と言い続けてきたその理由を、著書『偏屈のすすめ。』にこう書いています。
「わたしがブランドを立ち上げる前にも、そして立ち上げた後にも、自身のブランドを設立した時計師はたくさんいる。わたし以上に有名で、またビジネスの数字上で成功している時計師もいる。しかし、その多くは投資家の支援を受けたり、大資本に吸収されてしまっている。独立性は失われ、才能ある時計師のクリエーションが発揮される状況にない」
当時の気持ちは今も同じです。ただ60歳になって、将来にわたって自分の会社を守っていくことを考えた時、ちょっと気持ちが変わりました。というのも、成長を見守ってきた2人の息子たちに会社を受け継ぐ意思のないことが明らかになったからです。30歳になる長男は歴史の勉強をしていますし、時計学校に入れたかった17歳の次男はバスケットに夢中でね。もともと後継者を育てようという発想がなかったから、それはそれでいいと思っています。
今回、10年ほど前からお話をいただいているシャネルの資本を受け入れたのは、シャネルが家族経営の非上場会社で、当社と同じ哲学を有しているからです。それにトップの3人兄弟は皆さん、時計のコレクターであり、私の時計の愛好者でもある。良好な関係が築けそうです。
力強いパートナーに
シャネルはこれまでもベル&ロスやローマン・ゴティエなどの時計ブランドに“投資”をしてきた実績がある。イメージやビジョン、目標への干渉はせず、ブランドの発展と継続のためのサポートをする投資スタイルが特徴的。
シャネルのような巨大なパートナーは、ブランドが経済的な苦境に立たされた時に支えてくれる力強い存在になり得る。ジュルヌの決断は、ブランドの数十年先を見据えてのものであると言えよう。
シャネルのための時計づくりは「NO」
しかし「ならば、今後はシャネルのために時計をつくるのか」と問われれば、答えは「NO」。シャネルはおそらく1モデルにつき3万本くらい生産しているでしょう。私どもはそういうインダストリーとしての時計づくりをしていません。
技術を愛して、常に未知の機構に挑み、オリジナルを開発することを本懐としています。だから年間約900本という少量生産。そこがシャネルとの根本的な違いでしょうね。資本参加率を20%としたのもそのため。それ以上は嫌だった。かといって10%だと意味がない。80%は我々の会社だというところで、ブランドとしての独立性が保たれると思いました。
車にたとえるなら、フェラーリのようなものでしょうか。カーレースに情熱を燃やしたエンツォ・フェラーリが立ち上げたこのブランドは、およそ20年後、フィアットグループと彼の最高の顧客の一人であったアニェッリと提携。その一環として、フィアットに株式を売却しました。
当時、「エンツォの死後、フェラーリはどうなるのか。会社も一緒に死ぬかもしれない」とウワサされたものです。でも彼の死後、今なおフェラーリは生きていて、美しい車をつくり続けています。もちろんエンツォの時代の車はすべて、今の世にも変わらぬ価値を放ち続けています。私はそこにジュルヌ・ブランドの未来を重ね合わせています。
独立時計師としての歩み

ジュルヌが独立時計師として頭角を現したのは25歳の時。独学でトゥールビヨンを完成させ、業界は度肝を抜かれた。今でこそコンピューターを使って、多くのブランドがこの機構をラインアップしているが、その端緒を開いたのはジュルヌだ。
また例えば1991年には、トゥールビヨンと主ゼンマイの力を一定に保つルモントワール機構を搭載した初めてのウォッチを製作。その8年後に「トゥールビヨン・スヴラン」を誕生させた。ブランドを立ち上げたのはこの時である。
ジョージ・ダニエルズのような時計師に
子どもの頃はバイクや自動車を分解し、組み立てては、どんな仕組みで動いているのかを見るのが大好きでね。それもあってか、親に連れられて、14 歳でマルセイユの時計学校に入学しました。そこで修理の技術を学び、「時計師になるのも悪くないな」と思ったことを覚えています。
でも残念ながら、勉強が嫌いで一般教養の授業になじめず、2年で退学してしまいました。その後、パリの時計学校に学びながら、叔父の営む修理工房で働きました。そこのサロンに集まるお客様の中に、懐中時計を身につけている方がいらして、しだいにそちらに目が引きつけられたのです。
特に衝撃的だったのは、イギリスのジョージ・ダニエルズという人がつくった時計です。調べてみたところ、彼は部品からすべて自分でつくり、オリジナルの時計を製作する唯一の時計師。自分もやりたい、彼のような時計師になりたいと強く思いました。
失敗は次のステップに進むための経験値
振り返れば、時計師になってゆく過程で、何と多くの失敗をしてきたことか。
例えば腕時計で最初にレゾナンスをつくった時がそう。ご存じのように、レゾナンスは二つのテンプに共振現象を起こさせることで、衝撃による誤差を最小限に抑える仕組みのことですが、これがうまくいかない。動かないんじゃないかと思うことすらありました。
不安になって友人に見せると、「いいよ、すごくよく動いているじゃないか」と言われました。それでいいと思う人もいるでしょうけど、私はそうじゃない。完璧な機構を求めているから、部品の形状や組み立て方などの実にデリケートで微細な差異をどこまでも追求しないと気がすまないんです。
以後も試行錯誤を重ねて完成させました。大事なのは、失敗する中でなぜ失敗したのかを考えることと、学ぶこと。そうすれば、次の時計をつくる時に、やっていいこと・いけないことの判断ができるようになります。使える技術と使ってはいけない技術とがはっきりしてくるのです。
パリで独立してからの10年、私は机の引き出しに「失敗ボックス」と名付けた箱を入れていました。そこに、失敗した部品を1年分ごとに小さなケースにまとめていたんです。
今は失敗した部品は捨てますが、新しいムーブメントをつくるたびに、小さなケースが一杯になるくらいの失敗部品が生まれます。新しい機構の発明は、常に多くの失敗の上に成り立っているのです。それらは単なる失敗作ではなく、次のステップに進むための経験値だと考えます。
時計史に新たな1ページを開く挑戦

手巻き、ケース径44㎜、RGケース×RGブレスレット、10,108,800円
トゥールビヨン・スヴランの誕生から5年後、ジュルヌはその技術を「トゥールビヨン・スヴラン・デッド・セコンド」に昇華。さらに2012年には、スヴラン・コレクションに「クロノメーター・オプティマム」を発表。高精度を担う複数の機構を一つの時計に組み込んだ。
また2006年には、正時を鐘の音で知らせるソヌリ機構とミニッツリピーター機構を組み合わせた「完璧無比のグランソヌリ」とも称すべき「ソヌリ・スヴレンヌ」を発表。独立以来20年にわたって、ジュルヌは時計史に新たな一ページを開く挑戦を、休みなく続けている。
生涯、独立時計師
メカニズムは古典を模範としながらも、今までにない方法で動かす、それが私の時計づくりの美学です。シャネルの資本が入る今後も、自分の好きなものを自由につくり続けます。
2018年は、ラインスポーツに新たなモデルとしてクロノグラフ・モノプッシャーラトラパンテが加わりました。素材はプラチナ、ローズゴールド、チタンの3タイプ。もちろん、自社開発の新ムーブメントを搭載した自信作です。またクラシックラインでは、コレクションをどんどん刷新します。
それと2019年はトゥールビヨン・スヴランの20周年を記念して新しいモデルを出します。あとクロノメーター・レゾナンスが誕生20年を迎える2020年には、より精度の高い複雑なムーブメントを搭載した新モデルのほか、天文時計の複雑さを有したグランドコンプリケーションも発表予定です。
でも私は、将来のモデルについてはあまり考え過ぎないようにしています。頭に浮かんだ新しいプロジェクトに100%の力を注ぎたい。今すでに向こう3~4年の開発計画があるので、その先を考えるのは2年後くらいでしょうか。
生涯、独立時計師。グループ企業に“身売り”する気は毛頭なく、今後も“やりたいことリスト”に従って、技術を追求していきます。私のクリエイティビティーは枯れない泉のようなもの。人生の最後まで働き続けますよ。
●F.P.ジュルヌ 東京ブティック TEL03-5468-0931